『僕の好きな先生』

3月の、やけに空の高い日だった。
進級前の校舎は静まり返っていて、美術室の扉を開けると、乾いた絵の具の匂いがふわりと漂った。
奥で先生が、画板を磨いていた。
生徒が彫刻刀で掘ったらしい落書き。
名前や、意味のない線。
先生は紙やすりを当て、黙々と削っている。

「春休みなのに、何してるんですか」
そう言うと、先生は顔を上げずに笑った。
「次に使うやつが気持ちよく描けるように、だよ」
私は隣に座り、言われるままに別の画板を持った。
削る。払う。削る。払う。
窓から差し込む光が、木の粉を小さく光らせていた。
「先生、なんで美術の先生になったんですか」
なんとなく聞いた問いに、先生は少し手を止めた。
「さあな。絵が好きだったから、かな」
それから少しして、ぽつりと言った。
「でもな、絵の描き方なんて、本当はどうでもいいんだ」
紙やすりの音だけが続く。

「うまく描けるやつもいれば、描けないやつもいる。でもな、描こうとする時間は、みんな同じだろ」
先生は、削り終えた板を光にかざした。
「人の人生も似てる。表に出る色は違うけど、その下で何を重ねたかは、本人しか分からん」
私は手を動かしながら、自分の進路のことを思っていた。
特別な才能もない。目立つこともない。
このまま普通に進んで、普通に働いていくのだろうか、と。
先生は、私の心を読んだみたいに続けた。
「美術教師ってな、絵を教えるのが仕事じゃない」
窓からの光が、床に長く伸びていた。
「生徒に人生を教えるのが役目なんだぞ」
少し照れたように言って、また画板を磨き始めた。

その時は、うまく意味が掴めなかった。
大げさだと思ったし、少し笑ってしまった気もする。
卒業して何年も経ってから、ふと思い出す。
あの春の光。
削られて、滑らかになっていく木の手触り。
先生は、落書きを消していたんじゃなかったのかもしれない。
次の誰かが描くための、余白を整えていたのだ。
あの言葉は、今も消えない。
人生は、完成図を教わるものじゃない。
描く場所を渡されるものなのだと。
三月の光の中で、
あの人は静かに、床を削る人のように、
僕らの下地を整えていた。

【印象派をめぐる十の絵、十の物語:第五話】


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※本解説は、作品を味わうための一つの見方として構成したものです。 見る方それぞれの経験や感性によって、異なる春の表情が立ち上がることを、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
※画面で見ている色と、実際にプリントした色は、どうしても少し違って見えることがあります。これは、モニターの表示方法やプリント用紙・インクの違いによるものです。その点をご理解のうえ、お楽しみいただければ幸いです。

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