『帰れない二人』
美術館の薄暗い展示室で、私たちは『ローヌ川の星月夜』の前に立っていた。
深い紺碧の夜空に、星々が溶け込むように瞬き、川面にはガス灯の光がオレンジ色の筋を描いている。水面に映る光の揺らめきは、まるで生きているかのように蠢き、その手前には二人の人物が並んで立っていた。
「この二人、夫婦かな」
僕は何気なく隣の彼女に言った。夜の散歩を楽しむ、穏やかな老夫婦。そんな風に見えたのだ。
彼女は、絵から目を離さずに小さく笑った。
「違うわ。不倫してるのよ、きっと」
心臓が、ドキン、と鳴った。
彼女の言葉は、絵の中の人物像だけでなく、まるでこの僕たちの関係性そのものを射抜くようだったからだ。僕たちは、今、こうして週末の美術館で共に時間を過ごしているけれど、ここから家に帰れば、それぞれ違う日常に戻っていく。誰にも言えない秘密を、僕らはこの絵の中の二人と同じように抱えている。
「なんで、そう思うんだ?」
僕の声は、自分で思っていたよりもずっと掠れていた。
「見て、あの距離感。寄り添っているわけでも、手をつないでいるわけでもない。でも、互いの存在だけは確かに意識し合っている。そして、誰にも見られないことを知っている、夜の川辺よ」
彼女は、水面に長く伸びるガス灯の反射を指差した。
「あの光の柱を見て。祝福の灯りにしては、あまりにも鋭くて攻撃的だと思わない? まるで舞台照明みたいに、闇に紛れた二人を暴こうとしている。夫婦なら、もっと堂々と真ん中を歩けばいい。でも、あの人たちは端っこで、今にも夜の中に消えてしまいそうな顔をして立っている。……どこにも帰る場所がない顔をしているのよ」
帰る場所がない顔。
その言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。ゴッホが描いた二人は、たしかに穏やかな夜景の中にいるのに、どこか浮遊しているように見えた。水面に揺れるガス灯の光は、彼らを照らすというよりも、彼らの影を長く引き延ばし、現実に縛り付けている鎖のようにも映る。
「帰る場所がある人は、あんな風に川の向こう岸をじっと見つめたりしないわ。あの二人は、あの川を渡れないことを知っているのよ」
ふと、彼女が僕の手をそっと握った。美術館のひんやりとした空気の中で、彼女の指先だけが熱い。
僕たちは、この絵の中の二人と何が違うのだろう。星の降る夜に、二人きりで立つ僕たちもまた、いつかはこの絵の中の「帰れない二人」になってしまうのだろうか。あるいは、もう既になっているのかもしれない。
ローヌ川の深い青が、僕たちを静かに見下ろしていた。星はただ、きらめき、瞬いている。
僕たちは言葉もなく、しばらくの間、その絵の前に立ち尽くした。
この夜景のように美しい秘密を、僕らはいつまで抱えていられるのだろう。
この絵の中の二人のように、僕たちもまた、どこにも帰れない。
そんな予感が、僕の心を静かに支配していた。
【印象派をめぐる十の絵、十の物語:第八話】

※本解説は、作品を味わうための一つの見方として構成したものです。 見る方それぞれの経験や感性によって、異なる春の表情が立ち上がることを、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
※画面で見ている色と、実際にプリントした色は、どうしても少し違って見えることがあります。これは、モニターの表示方法やプリント用紙・インクの違いによるものです。その点をご理解のうえ、お楽しみいただければ幸いです。
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