『星、今宵』
社会人になって六年。三十歳という足音が背後に迫り、焦りばかりが募っていた。このところ仕事ではミスが重なり、上司の冷ややかな視線や、自分への不甲斐なさが澱のように溜まっている。もう、全部投げ出してしまいたい。そんな逃げ場のない疲れを抱え、時計の針が八時を回った頃、私は駅前のカフェに逃げ込んだ。
窓際の席に座り、温かいコーヒーで喉を湿らせる。ガラス一枚隔てたすぐ横、オープンテラスのテーブルでは、一組のカップルが話し込んでいた。 ふと見ると、男性が小さな包みを取り出し、女性に手渡した。中身は見えないが、女性は弾かれたように体を前に乗り出し、心底嬉しそうな声を上げた。 「おめでとう!」 喧騒に紛れて断片的にしか聞こえないが、その祝福の響きだけで、彼らにとって今日が特別な夜であることが伝わってきた。
男性は、よほど照れくさかったのだろう。
胸の前で両手を組み、その親指で、鼻の頭をキュッキュッと左右に擦ったのだ。
私の指先が、カップの上で止まった。 心の中の古い記憶が、強い風に吹かれたようにページをめくる。 父だ。
私がまだ幼かった頃、父が何かいい仕事をして帰ってきた夜。不器用で口数の少ない父が、言葉の代わりに必ず見せていたのが、あの「鼻を擦る癖」だった。 組んだ手の親指で鼻を抑えるように擦る。それは、溢れ出しそうな喜びをなんとか抑え込もうとする、父なりの慎ましやかな儀式だったのだ。
今の私と同じように、父もまた、この夜の光の下で戦っていたのだろう。満員電車に揺られ、理不尽に耐え、それでも家族のために「小さな勝利」を持ち帰ろうとしていた。あの癖は、父が自分自身に贈っていた、たった一人の表彰式だったのかもしれない。
隣の席の男性は、今もまだ誇らしげに鼻を擦っている。その仕草が、まるで「お前も、いつかまたあっち側に行けるよ」という父からの伝言のように私に届いた。 最後の一口を飲み干し、私は席を立った。不思議なことに、あんなに重かった鞄が、今はそれほど苦にならない。
翌日。 昨夜の余韻が消えないまま、私は偶然立ち寄った本屋で一冊の画集を手に取った。 開いたページに、あの夜の光景が閉じ込められていた。 鮮やかな黄金色のテラス、深い青の夜空。ゴッホが描いた『夜のカフェテラス』。
解説には「この絵には、夜を描くのに黒が一切使われていない」とあった。 ああ、そうか。 父が戦っていた夜も、私が俯いていた昨夜も、本当は真っ暗なんかじゃなかったんだ。
私は画集を閉じ、前を向いた。 今日、もし私に小さな良いことが起きたら。 その時は私も、父のように鼻の頭をこっそり擦ってみよう。
【印象派をめぐる十の絵、十の物語:第二話】

※本解説は、作品を味わうための一つの見方として構成したものです。 見る方それぞれの経験や感性によって、異なる春の表情が立ち上がることを、ぜひ楽しんでいただければ幸いです。
※画面で見ている色と、実際にプリントした色は、どうしても少し違って見えることがあります。これは、モニターの表示方法やプリント用紙・インクの違いによるものです。その点をご理解のうえ、お楽しみいただければ幸いです。
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